――常に「今から」「この瞬間から」――
■森下勉、誓約・規則違反を告白
僕は今日、
午前7時に目覚し時計がなったにもかかわらず、
2度寝して午前9時ごろまで寝てしまった。
これは、
規則13「起床は午前7時でなければならない。
睡眠時間がどれほど短くとも、
午前7時には起床しなければならない」および、
誓約1「僕は、その日の課題が達成されるまで眠りません」・
誓約2「僕は、朝起きればただちに布団をたたみ、その日の課題が達成されるまで布団を敷きません」に
明らかに違反する行為である。
(誓約には「注」として、
「ここで言う『朝』とは、最初の目覚まし時計が なった時刻を指す」とある)。
また、
一度失敗をしたためにやけになってしまったのか、
その後昼間に2度も自慰行為を行なってしまった。
これは
規則12「朝起きてから就寝の直前までは自慰行為をしてはならない。
また自慰行為は、
一日に1回以上行なってはならない」に
明らかに違反する行為だ。
さらに実家では、
インターネットを利用する際規則16に定められた手続き
(「インターネットを利用する際は、
事前に要件を紙に書き、
それ以外の事をしてはならない。
その紙には、
インターネットを止める時間も書いておき、
その時間を超えてインターネットをしてはならない」)
を行なわなかった。
以上のように、
僕は今日、
充実した人生を送る上で最も避けなければならない
誓約違反・規則違反を連発するという大失態を犯してしまったのだ。
■挫折は努力の証拠 一刻も早く継続復帰を
「自分を信じよ」には次のようにある。
何度挫折しても、
それまでの全てを否定する必要はどこにもない。
挫折はいわば努力の証拠なのである。
努力しないものが挫折することは
そもそも不可能なのだから。
出口汪先生は、
「挫折の時期にどう生きたかで、
その人の価値が決まってくる」と言っている(出口汪『早わかり文学史』135ページ)。
それまでの努力を無駄にせず、
一刻も早く継続復帰を図ることこそ大切なのだ。
一度誓約・規則に反した行動をとってしまったからといって、
何もわざわざその後の行動を
誓約・規則に反したものにしなければならない理由は
どこにもない。
自分が過ちを犯したことに気付いたときには、
その瞬間からただちに悔い改めて、
正しい道に復帰する。
誓約・規則に反する行動を取ってしまったからこそ、
その失態を取り返すほどの大きな成果を
勝ち取らなければならないのである。
「自分を信じよ」にもある通り、
「常に『今から』・『この瞬間から』最高最勝の人生を」の精神で、
僕は闘い抜かなければならない。
【本日の達成】
『はじめてのフォニックスレベル1』(英会話のジオス)レッスン7~8
『脳力アップドリル1年こくご』7
【明日の課題】
『はじめてのフォニックスレベル1』(英会話のジオス)レッスン9~10
『脳力アップドリル1年こくご』8
――英語の"pot"に「魔法瓶」の意味はない――
■"pot"は「深いなべ」の意味
『はじめてのフォニックスレベル1』(英会話のジオス)49ページに、
"pot"という単語の表わす絵を書いてみるようにという問題があった。
僕はさっそく魔法瓶の絵を書いたのだが、
これは間違いであった。
「魔法瓶」という意味は英語の"pot"にはない(『ジーニアス英和辞典』)。
英語の"pot"は「深いなべ」という意味なのだ。
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【本日の達成】
『はじめてのフォニックスレベル1』(英会話のジオス)レッスン3~4(週間復習)
『脳力アップドリル1年こくご』週間復習
【明日の課題】
『はじめてのフォニックスレベル1』(英会話のジオス)レッスン5~6
『脳力アップドリル1年こくご』6
【週間課題】
『はじめてのフォニックスレベル1』(英会話のジオス)レッスン5~13
『脳力アップドリル1年こくご』6~10・確かめテスト②
■漱石は心の必須栄養素
僕の尊敬する予備校講師・
出口汪(ひろし)先生は、
本書の中で日本最大の文豪・夏目漱石について
次のように述べている。
漱石は……実に大きな作家である。
読者が誰であろうと、
必ずそれなりに答えてくれる作家だ。
漱石の面白さがわからなければ、
文学の面白さも、
人間の不可思議さもわからないのではないか、
こんな思いに駆られてしまうほど、漱石はすごい。
だから、
すべての日本人に漱石を贈りたい。
社会人も、学生も、主婦も、高校生も、高齢者も、
心のどこかに漱石を取り入れてほしい。
漱石は日本人の心の栄養素である。
……人生の豊穣さを実感するには、
この栄養素がどうしても必要なのである。
本書・『夏目漱石が面白いほどわかる本』(中経出版)は、
出口先生の手による、
その夏目漱石の文学世界への入門書である。
実際に夏目漱石の文学作品を読む前に、
本書を通読して漱石の人生の大枠を知っておくと、
作品理解がよく進む。
■漱石の作家活動はわずか約10年
出口先生は本書の7ページの冒頭で、
「漱石は実に不思議だ」と述べている。
「あれほど多くの作品を残し、
あれほどの熱狂的な読者を持ちながら、
漱石が実際に作家活動をしたのは10年ほど」だというのである。
とはいえ、
キリスト教の救主であるナザレのイエスも、
実際には3年ほどしか活動していないという。
しかし、
彼のその3年の言動が
後世に与えた影響は計り知れない。
人間の人生の重みは、
単に生きた時間の長さだけによるのではない。
イエスや漱石のような偉人の生涯を知るにつけ、
僕は改めてそう思う。
■明治○年=漱石○歳
夏目漱石は1867年の1月、
つまり、
明治1年=1868年〔いやーロッパ(1868)くん、明治だね〕の前年に生まれている(本書7ページ)。
だから、
明治1年の1月に彼は1歳の誕生日を迎え、
明治2年には2歳、
明治3年には3歳となる。
要するに、
漱石○歳というのが明治の年号と
ぴったり重なり合うのである。
(漱石45歳の明治45年で明治は終わり、大正となる)。
だから日本史で「明治○年」と言われたら、
「あぁ、漱石が○歳のころで、
××してたころだな」と思いうかべれば、
時代背景がつかみやすくなる。
出口先生は本書の中で、
漱石がわかるってことは、
日本の近代の社会の様相がわかることにつながる(本書16ページ)
と述べているが、
その意味でも、
漱石に精通していると実にお得なのである。
【本日の達成】
『はじめてのフォニックスレベル1』(英会話のジオス)レッスン1~2(週間復習)
『脳力アップドリル1年こくご』(学研)確かめドリル①
【明日の課題】
『はじめてのフォニックスレベル1』(英会話のジオス)レッスン3~4(週間復習)
『脳力アップドリル1年こくご』週間復習
――イソップ童話「きつねと つる」――
■きつねを擬人化し、「手」をつけたイラストは誤り
本書22~23ページの「たしかめドリル①」では、
イソップ童話「きつねと つる」が教材としてとりあげられている。
たしかに、これはなかなか面白いお話である。
小学1年生の子供たちに是非とも読んでもらいたい作品だ。
だが、
そこについているイラストがよくない。
このイラストでは、
つるときつねが擬人化され、
彼らは立派な服を着て、二足歩行をしているのである。
つるはもともと二足歩行であるので、まあいいだろう。
問題はきつねである。
イラストではきつねも二足歩行をし、
前足は「手」として描かれている。
しかしそれでは、
作品の筋が通らなくなってしまうのである。
ここで、
「きつねと つる」のあらすじをざっと紹介しておこう。
ある日いたずら者のきつねが、
「おいしい スープを ごちそうする」と言って、
つるを自宅に招待する。
ところがきつねは、
そのスープを「たいらな おさら」に入れて出したのである。
つるのくちばしは長いので、
お皿をつつくことしかできない。
きつねは自分のスープを全部飲んだ後、
「おや、いらないのかい。
では、
ぼくが きみの 分も いただくよ」と言って、
つるのスープまで全部飲んでしまうのである。
結局きつねには最初から、
つるにスープを飲ませるつもりなどさらさらなかったわけだ。
そこでつるはある仕返しを考えた。
翌日、
今度はつるがきつねを自宅でのパーティーに招待する。
きつねはつるの家にやってくる。
つるはごちそうを出して、
「さあ、どうぞ めしあがれ」と言う。
だが、
ごちそうはすべて、
「細長い つぼ」には入っていたのだ。
本文では、
「きつねが いっしょうけんめい したを のばしても、
ごちそうに とどきません」と書かれている。
だが、
このお話はあくまできつねが「四足」であることが大前提となっている。
もしイラストにあるようにきつねに手があったのであれば、
「細長い つぼ」を持ち上げて、ひっくり返して食べれば
すんでしまう話になってしまう。
「いっしょうけんめい したを のば」す必要などどこにもないのである。
これではそもそも「しかえし」にはならない。
大体つるの出した「ごちそう」は、
つぼに入っているものである以上、
中身はつぼの口から出入りできる大きさのものである。
ひっくり返して出てこないはずはない。
それともこの「ごちそう」は、
つぼの中で固まるゼリーかムースか何かの類だったとでも
言うのだろうか。
(もしそうであれば、
作品本文中ではっきりと明示するべきである。
そうしないと、
「イラストではきつねには手があるのに、
どうしてつぼをひっくり返さないんだろう」と、
学習者の間に至極当然の疑問を呼び起こすしまう)。
以上で述べてきたように、
イソップ童話・「きつねと つる」のお話は、
きつねが四足であり、
「手」を持たないことが作品の大前提となっている。
もしきつねに手があったのなら、
作品そのものが成り立たなくなってしまうのだ。
子ども向けの学習教材において、
登場する動物たちを擬人化したイラストで紹介して
理解を促すことは決して悪いことではない。
しかし、
イラストはあくまで本文の理解を助けるものでなければならない。
本文の内容と矛盾し、
作品の前提そのものを破壊してしまうイラストなら、
むしろ載せないほうがましである。
僕は、イソップ童話・「きつねと つる」のイラストにおいてきつねは、
原作の想定どおり、
あくまで四足の動物として描かれるべきだと考える。
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